●府中小学校100年誌「ごさそう」=昭和48(1973)年11月3日発行(※本町校舎に関する部分を抜粋、要約)

①月藤宇左吉(明治36年卒業)

 …明治6年「開明舎」開校…後年、現在辻の故中原英一氏宅付近一帯に府中小学校の校舎及び運動場が創設され…隣接の温品、中山、矢賀、馬木から高等科に通学する生徒も多数であった。その後、児童生徒が増加し、狭隘となったので現在の場所に移転したのである。

 …まことに粗末な校舎で、板を打ち付けて風を防ぐ程度のもので、冬の凍るような寒い日でもクラスの片隅にイロリが造られ、炭の火で順番に手を暖めて勉強したものであった。…授業がすむと(友人と)八幡に行き、日暮れまで遊んで家に帰った。メジロ取りに…よく山に行った。

②山田チエ(明治43年卒業)

 小学校は辻部落にありました。平屋の粗末な建物でした。…書道の時間が始まる前、みんなが山王さんのところ水を汲みに行くのです。授業が始まる時は小使いさんがカネをたたいて知らせました。校庭もなく、朝会がすむと3年生以上は現在役場のあたりの土手にあった隔離病舎跡の建物へ行って授業を受けました。運動場は多家神社の社務所があるあたりの広場でありました。

③平本義隆(明治44年卒業)

 生徒数は400名くらいだったか、学校の敷地校舎はごく小さな者でした。辻の内か砂原の内かわかりませんが、山王さんの祠に近い所で、南側道路沿いに校舎はなく、大きな柳の木があったように思います。ほかに現在町役場のある榎川の土手に高等科の校舎がありました。

 校庭も狭く、陸上運動会は私の記憶では初め現在多家神社社務所のある所が会場でした。その頃は道路に面して現在の石の玉垣はありませんでしたが、それにしても極めて狭く、徒競走も小さな円形に近いコースで、直線がほとんどないのでスタートとともに状態を内側に倒して走らねばならないほどでした。次いで多家神社の改築前で現z内の拝殿本殿の所が運動会会場になったこともありました。その後本校校舎の敷地が北側に拡張されて校舎も新築移転改築せられ面目一新しました。校庭も広くなりました。道路を隔てて西側にも当時としては広い運動場も整備され、運動会も家族など観衆を十分収容しておこなうことができるようになりました。

④沢村敏衛(大正2年卒業)

 当時の学校の位置は、西側がえのみや橋から安芸町へ通ずる県道、北側が浜の尾から山田へ抜ける道、南側が山王社から県道へ出る道に三方を囲まれ、東側だけが一般民家に接した一区画で真ん中に運動場として空地を残し、初めはその東側と西側とにかわらぶき平屋の校舎が建っており、後には南側と北側にも増築されたように思います。正門は、西側県道に面していました。正門前には県道をへだてて平本家所有の水田がありましたのを、同家のご厚意でその一面を埋め立てし、運動場が造られました。…当時では大運道場ができたように思われ喜んだものでした。

⑤山田要(大正11年卒業)

 分校が今の役場庁舎のある土手にあった(大正6,7年頃)。平屋建ての長い建物で、3,4年生が学んでいた。土手下を流れるえのき川の水はいつもきれいで、岸辺には小さな水草が生い茂っていた。わたくしたちは休憩時にはこの川に降りて遊んだ。…習字の後は筆を洗ったり、掃除の時はバケツを持って川辺にかけ降り水をくんでまた駆け上がった。時には窓から雑巾を下の川に投げ、待ち構えた者がそれを受け取って川水でよくすすぎ窓をめがけて投げ返すこともあった。

⑥三宅義治(大正13年卒業)

 …現平本病院前の府中尋常高等小学校という名前です。30センチ角、高さ2メートルあまりの石の門柱に、幅30センチ、長さ1メートル30センチくらいの上記の校札がかかっていました。

 校門をはいると校庭の真ん中に丸く仕切り、樹木を植えた中庭があったことを思い出します。この中庭をはさんで毎朝のあいさつをすませ、分散して各教室にはいりました。3年生か4年生のとき先生に引率されて分校(現在の役場)のところへ向かっていく…。

⑦原彰(昭和2年卒業)

 小学校に入学したのは大正8年で、本校は現在山王神社の側に木造平屋建てでコの字型に建ち、西に道路を隔ててポプラ並木で囲まれた運動場があり、さらに西隣に作業農園があった。分教場とも2学級編成で高等科生には矢賀、中山、温品からの通学生もいた。

 …高等科の担任は林先生で、農業を専攻しておられ入学と同時に雌雄2頭の子豚を購入、学校養豚を採り入れられ農園の一部に豚舎を建て生徒が当番で飼料を持ち寄り卒業時には20匹くらいにする計画であった。ふえなかったが立派な親豚に成長して卒業記念の補助になった。

⑧武田一英(昭和3年卒業)

 …龍仙寺本堂は慶応元年に建てられておるので明治6年といえば8年目に当たるわけで財源の乏しい中に工事が進められたたため屋根の瓦も10幾年上がらぬままであった模様で、そぎ葺き姿の粗末な本堂が開校校舎となった訳である。当時の住職は私の祖父に当たる15代…

 大正15年初より現在の小学校の埋め立て工事が始められ、龍仙寺裏山と難波氏所有の山の土砂運びのトロッコ線が今の寺山橋に沿って敷かれ、農協の所を通り変電所への県道を横切り、役場の裏を通って人夫2人がかりの手押しで1日何十台もが往復して埋め立てられた。…昔の学校用地は平本家から借用していたものであり、現在の小学校の用地は同家より寄付されたものである。

 大正15年9月11日夜の豪雨による水害は忘れられない…休校も1週間以上であったようで、榎川の川床が上がったのも道路が上がったのも水害土砂によるもので、変形はこの時以来である。

⑨難波俊雄(昭和4年卒業)

 現在の町役場の所に尋常3年か4年生の分教場(土手の学校と言っていた)があり、役場の前から安芸町に通じる道を100㍍行った所に木造平屋建ての床の高い本校の校舎が道を境に東側にあり両側が運動場で、それから沖の方は一面の田畑でした。

 …げたやぞうりをはいて通学…登校下校の途中ツクシをつんだり野いちごを取ったりした土手、フナやカニを追っかけた小川もなくなり麦畑も稲田も見ることができません。

 …鹿籠から学校まで50分位かかるのですが、雪が降ったり雨の日は1時間以上かかってしまいます。…八幡部落の入口の所から鹿籠までは家は1軒もなく中央小学校の付近は一番さびしい所でした。…首のない馬が船越峠に向かって走るとか…おどかされ目をつぶって橋って帰ったことも…

⑩難波年子(昭和4年卒業)

 …袴をはいて入学式に行ったのを懐かしく思い出す。平本病院と佐伯スーパーのあるところが運動場で、道をへだてて反対側に木造の平屋校舎があった。運動場には大きなポプラの木と柳の木が周囲に植えてあって夏の陽射しにポプラが緑の葉をキラキラと青空に光らせていた。

 休み時間の合図の鐘が鳴ると校舎から道をへだてた運動場へ遊びに出た。一日に何回となくこれを繰り返していたのだが、別に大きな事故もなく本当にのどかな風景だったと思う。

 3年生になった時、土手の学校に移った。土手の学校というのは生徒の数が増えて教室が不足してきたためであろう、今の役場が建っているところに4教室ばかり木造の粗末な教室が造ってあった。それを土手の学校と呼んでいた。朝会をすませると並んで土手の学校に行く。

 …ほとんどの人は家に昼食を食べに帰った。ご飯を食べると大急ぎで学校に行く。そして教室の下を流れている「えのき川」で水遊びをした。…とにかく土手の学校は楽しかった。

 6年生の安芸に新しい校舎が現在の校地に作られた。今上陛下の即位の御大典と併せて落成式が盛大に行われた。学校にはじめてピアノが寄贈され…式の歌を唱った。

⑪松石保(昭和3~14年赴任)

 …就任した当時は本校が辻部落にあって、分教場が現在町役場にある土手の広場にありました。どちらも校舎が古く校地が狭隘であったため…現在の位置に木造2階建ての校舎が急ピッチで建築されている時でした。教室不足のため多家神社の下の埋め立て地(水害の際の川砂が捨てられていた所)にバラック教室が3教室造られました。私は菅原守校長先生の命でこの教室で約3カ月教育に当たったのです。

 教室とは名ばかりで、板囲いに窓が取り付けられ至極簡単なもので屋根はトタン葺きで床などありませんでした。砂の上に黒板を立て、机と腰掛けを並べただけで下駄履き入室です。授業をしていると腰掛けが砂の中に入り込んで机の上に顔だけ出している生徒があっちこっちに見受けられます。教室の仕切り板が低いので隣の授業は筒抜けです。…陽が照りつけると途端が焼けてすごく暑くなり、あえぎながらの授業です。雨が降り出すと大変です。教室に雨水が流れ込むので外へ出て水止めを作る始末です。

府中小学校「幻の校舎」調べ

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